さいたま市中央区大戸3-13-3
大戸不動堂
明王院から来た道へ戻り、南下する。日向交差点をすぎると、右に土合浄水場がみえ、その先のこんもりとした森の中に、西堀氷川神社がある。 ここにその昔法性寺はあった。ここまで10分ほどで歩くことができる。
氷川神社の境内の右手が幼稚園になっており、そこにケヤキの大木があり、この前に法性寺があったといわれ、現在の幼稚園の建物のところには鐘樓があって、 それらに使われていた石材は、現在、神社の境内のあちこちに使われている。
以上のようにここの宮司の真取氏に伺った。高齢の神主さんだったが、ご本人は寺の建物をみたことなく、大戸不動堂になぜ不動尊が移ったのか、 銅鐘はなぜ西堀医王寺に移ったのか、詳しいいきさつは知らないとのことだった。
この神社は与野市の方から舌状丘陵の上にあり、その先端部分にあたり、建久年間(1190〜1199)年には六十四番の日向不動尊あたりに、 畠山重忠の家臣真鳥日向守が居城を築き、この神社がその出城になっていたらしい。
神社の入口の脇に真鳥城跡の説明がある。この静かな森の中の神社は見晴らしのよい丘の上になっていて、広い敷地は千坪をこえるのではないだろうか。 本殿の奥の神社は江戸中期の建物で、優れた意匠のために市の有形文化財に指定されている。
本殿の左奥には天神社、前の左右に三峯神社や稲荷社があり、 そのまわりにも、多数の祠や石碑があるから、この中に昔の法性寺のものが使われているのだろう。
不動堂はここから約1キロほど東の、与野市にあり、埼大通りから、大戸小の信号を北浦和駅からみて左へ入った先の氷川神社の隣にある大戸不動堂に納められている。 入口に1mくらいの高さの石に成田山とあり、中の左側に一列に、墓石の古いものが並べられており、右にはここを管理する人の建物がある。
お堂はコンクリート造りの二間四方の建物で、中をのぞくと暗くてよくみえないが、中央に不動尊、他に三体の仏像がみえる。百不動の扁額はみえず、 どのような縁故で法性寺の不動尊はここにまつられるようになったのだろうか。(高島英一著より)

2009年9月10日参拝

御詠歌   西堀にたちさためたる あしやらそん よをみちひきの 法の性とや

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