さいたま市緑区東浦和5−18−9
武蔵野線、東浦和駅北側、浦和明の星女子高等学校西側に清泰寺はある。
清泰寺は、天台宗の寺で慈了山覚源院といい、平安時代初期の高僧慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝えられている。
本尊は十一面観音立像(秘仏)で、江戸時代初期の作とされている(市指定文化財)。
見性院は、穴山梅雪(武田の武将)の妻であったが夫の死後、徳川家康の知遇を得、大牧村を采地として与えられていたが、元和元年(1622)没して清泰寺に葬られた。
見性院が養育した二代将軍秀忠の子幸丸(後の会津二十三万石の城主保科肥後守正之)は三代将軍家光を補佐し幕政で活躍した。
見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われました。
そして2代将軍秀忠に男子幸丸が誕生すると、その養育を頼まれ、7才まで育てました。
幸丸は、後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。
正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、二十三万石の大名となり、幕政にも参画しています。
見性院は元和8年(1622)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、 その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。
なお、安政5年(1858)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことがわかります。
清泰寺の境内には、垣根のように並ぶ庚申塔349基と、青面金剛像浮き彫りの庚申塔1基、 自然石の庚申塔1基があります。一箇所にこれだけの庚申塔がまとまって存在しているのは、非常に珍しいことです。
349基には、正面に「庚申塔」の文字と寄進者の住所氏名が陰刻されているのみです。
しかし、青面金剛像の庚申塔には、右側面に「更新五拾ケ度供養塔」、左側面に「天明三」などの陰刻銘があります。
また、自然石の庚申塔には、正面に「三百 庚申塔」、台座裏面に「万延元」などの陰刻銘があります。
これらにより、349基は天明3年(1783)と万延元年(1860)とに奉納されたものであることがわかります。
ただし、349基はほとんど同寸同形状のため、五十庚申と三百庚申の区別はつきません。
本尊は十一面観音立像
足立坂東観音6番札所
足立百不動尊19番札所
宗教法人 清泰寺
さいたま市教育委員会

2009年5月18日参拝

【御詠歌】 てるつきに さゞなみきよく たいらかに うろくずまでも うかぶみずうみ

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