桶川市川田谷3050番台
砂ヶ谷戸霊園北・伊藤製作所南
住宅が間近に迫り、境内もあまり広くはないが、車が通らないせいか、比較的静かである。
境内には、供養塔、板碑が点在し、薬師堂と本堂の間には、ブランコやスベリ台が子供達の訪れを待っている。
左奥の道には、頭上におおいかぶさるように竹が繁り、その向こうは田んぼである。
昭和39年、門柱建設、昭和59年、本堂屋根葺替工事をした。
現在本堂は、書道の稽古場としても使われている。
「足立坂東観音霊場記」によると、本尊の十一面観音は8寸7分の立像で、聖徳太子が杉の丸太を刻んで作ったという伝承がある。
それはともかく、一本彫の造像で、かなり古いものであることは確かなようである。
次のような風説もある。
むかし、砂ヶ谷戸の高橋という里人が、お堂が大破して雨露に曝されている観音様を見るに忍びなく、日出谷の光明寺の住僧が同じ高橋という姓なので、これも何かの仏縁と観音さまを光明寺に移した。
お堂を修造するまでと思っている内に年月が過ぎ、二人共他界してしまった。
そのままになってしまっていたところ、元禄10(1697)年、さまざまな奇瑞(不思議なめでたいしるし)が現れたり、光明寺の方から光が輝いて村里を照らしたりすることがたびたびあった。
そこで、里人はお堂に集まって七日法事の念仏修行にはげむと、夜中に、観音さまのみ光があらわれた。
里人は、相談して、観音さまに、このお堂にご帰参を乞うた、という。
現在、観音堂内に、この風説をもとにして描かれたといわれる「観音菩薩遷帰勧請の図」が掲げてある。
川田谷村泉福寺の末寺だが、創立は不詳。
宝永6(1709)年、第三祖玄清の中興と伝えられている。
本堂、間口7間4尺、奥行5間5尺
庫裡、間口9間3尺、奥行3間5寸
境内、572坪
檀徒、58人
観音巡礼 山田計司著より

2009年4月26日参拝

【御詠歌】 迷い来や路の指南をたよりにて いさがや戸をば開きぬるかな

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