さいたま市水判土462
大宮西高校北西630m
高台に、観音堂の巨大な屋根が聳えているのが目に入る。
六間四方の観音堂は、札所の中でも最大のものである。
現在、その隣りに、閻魔堂も建設中である。
墓地を挟んで、隣に本堂がある。参道は両脇に手入れの行き届いた植木が並び、境内には、銀杏、榧、槙などが見事に枝を広げている。
入間郡小仙波村中院の末寺で、古くは蓮華寺といった。
開山は、天長3(826)年、仏法を教えに東国を歩いた第3代天台座主慈覚大師円仁が、淳和天皇の勅により建立したという。
十一面観音は秘仏で、天長年間(824〜34年)に慈覚大師が一刀三札して刻んだもので、脇侍の不動、毘沙門も同じ作者のものだと伝わっている。
永禄5(1562)年、小田原の北条氏康が岩槻城の太田氏を攻める際、太田氏と密接な関係にあったこの寺も焼打ちにあった。
千手観音はその時、境内の柊の木に避難し鎮座したが、一時、木の上から徳光を及ぼしたという。
のち、岩槻の慈恩寺に預けられたが、住職の夢に現われ、霊意に叶わずのお告げにより、帰座させた。
天正18(1590)年、豊臣勢は大宮一帯を制圧したが、それを物語る「秀吉の禁制」が残っている。
家康が江戸へ入府後、慈眼大師の弟子で延宝2(1764)年、に亡くなった円海上人が寺を整えたので、中興開山となっている。
家康から寺領十石を受けている。
現在の本堂は昭和50年に新築したもので、寺宝としては千手観音(鎌倉時代)、市指定の文書3通、市指定の朱印状12通、慈眼寺千手観音縁起絵巻、市指定の柊などがある。
観音巡礼 山田計著より

2009年5月9日参拝

【御詠歌】 垢離取れば身は水波田に潤うて 示現のみ手の導きぞまつ

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