さいたま市浦和区上木崎7-19-1
11番景元寺を出て、来た道を先へ、100mほど進んだところを右へ折れると、まもなく道路の両側にお寺があり、右がポックリ寺で、左が正福寺となる。
正福寺は11番と同じく吉祥寺末で、この、お寺の金子住職によると、昭和42年からここへ来たが、その当時は相当な荒れ寺で、雨漏りもするひどいものだったらしい。
そういえば先の景元寺の魔王さんからも同じような話をきいた。 今では立派に再建され、昭和47年の本堂落成記念碑が吉祥寺住職の名で建てられている。不動尊はこの本堂の中にあり、立派なものであるという。十二番の扁額もある。
昔は足立神社の中にあった不動尊を、村の人がみられなくなって、現在は寺で預かっているという。
ご住職に聞いて、足立神社脇の昔のことをよく知るという。山崎家を訪れた。山崎氏による不動尊の歴史伝説は次のようなものである。
昔、先達が足立神社にいて、現在の第二鳥居の横にナラの木があるが、そこに不動堂があった。
この辺は河辺家と市川家が中心となり先達と共にこのあたり一帯を支配した、というか、勢力があったようだ。
昭和になってから、あちこちに点在する墓地を正福寺にまとめたらしい。
そういえば、大宮の東光寺にあった不動堂の持ち主も市川氏だった。
いつのころかナラの木のところの、不動堂が朽ちて、正福寺の門の右脇に不動堂を建てたが、これも朽ちて本堂の中にまつられることになったという。
百不動巡拝記には安政年間に不動尊が正福寺となっているのだから、それ以前の歴史の証言である。
山崎家に隣接する足立神社は千坪もあろうと思われる広い敷地に、神社がひっそり建てられ、長い参道には鳥居が二つあり、その二の鳥居の前にはナラの木があった。
安政の前はここに不動堂があったのである。(高島英一著より)

2009年8月26日参拝

御詠歌   いはたかき 上の木崎の不動尊 まめなるひとを 正す福い

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