さいたま市浦和区瀬ヶ崎2-15-3
13番長覚院の前の県道を渡り、南の方へ行く。500mほどでバス通りに出る。これが北浦和駅と三室を結ぶ北宿通りである。
この道を三室方面へ向かう。このあたりはマンション・ラッシュである。さまざまな形をしたマンションが林立する。すこし行くと左に木崎中学校がみえてくる。
その前に14番瀬ヶ崎東泉寺がある。
この東泉寺は、その隣の嶋神社と並んでおり、両方とも南を向いているので、 北宿通りからは裏口から入ることになる。お寺の中には、14番の扁額が観世音の扁額を右にしてかけられておりその下には秘仏の厨子がみえる。
お寺の横には、お寺の経営する幼稚園があり、そこを通って正門の前に立つと、そこには新しい石碑が建てられており、 足立百不動14番、足立薬師12番、新秩父観音12番と刻まれている。
お寺の前の道路を隔てて広い墓地があるが、この中にも大きなお堂があり墓地に入ってみると薬師堂と書かれた扁額がかかっており、 その前に珍しい石の坐像の六地蔵がある。
さきほどの嶋神社は、お寺の左側に真っ直ぐ伸びた参道をもち、北宿通りを背にした神社は静かなたたずまいを見せている。
平成5年の酉年ご開帳の折、この東泉寺の河野住職に、いろいろお話を聞くことができた。河野住職は最近まで、浦和の仏教会の会長をしておられた方で、 高齢にもかかわらず、お元気で活躍しておられる方である。
ご開帳の折まで、本堂内の左手にある大きく、堂々とした不動尊像が14番のお不動様とみていたのだが、実は別の小ぶりの不動尊が本尊であった。
大きく立派なお不動様は、それではどうしてここに鎮座するのか。ご住職の話では、太平洋戦争の際、上野の寛永寺から預かったものとのことであった。
寛永寺は一山三十寺といって、30のお寺が護持していたものなのだが、その中のどの寺か不明だが、戦争が急を告げてきたころ、 預かって欲しいと東泉寺へ持ってきたもので、その頃の東京のお寺にある貴重な文化財である仏像を、埼玉はじめ栃木、茨城の各県へ分散避難させたものらしい。
ところが戦争が終わっても引き取りにこないで、そのままになってしまったもので、このようなケースは他にも随分とあるらしい。
また、このお寺にある厨子は、中尾の饗庭家(近年玉林院の古絵図が出た)から、昭和30年頃、譲り受けて現在に至っているもので、 玉林院、明音院、西林院のいずれかにあった厨子らしい。
また、現在3番札所になっている大善院の不動尊は、谷田川に捨てられていたものを拾われたといわれている。
さらに、8番、本太光善院の所在地について、本太の三角稲荷の近くにあったことはまちがいない等々、百不動の関連情報を教えていただいたのである。(高島英一著より)

2009年8月26日参拝

御詠歌   ゆられこし おほくのひとも瀬か崎の 東の泉み 寺のにきはひ

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