さいたま市桜区田島3-28-19
西蔵寺を出てバス通りを北へむかう。やがて武蔵野線がみえてくるあたりの右に、田島如意輪寺がある。正面のお堂が観音堂で、左手に会館というか集会所がある。
右手と裏手に墓石が点在しているが、ひっそりしている。ここの観音様は足立坂東十三番で、新しい大きな石碑が建てられ、宝永山如意輪観世音とある。 百不動の扁額はみあたらないし、堂の中をのぞいても不動尊はみえない。このお堂には左手に、いちょうの大木があり、その根もとに五十貫と文字の見える力石がある。
お堂の前には柏の木があり、市の天然記念物になっている。との市の説明がある。さらに左手には、小規模だが御嶽神社がこの如意輪寺と並んでいる。 平成5年のご開帳の折に訪れると、不動尊は左の集会所内にまつられていた。角塔婆をたて、五色の善の綱が中へ導かれている。
不動尊は銅でできているような色をしているので聞いてみると、昔、この建物の裏にお堂があり、ほこりにまみれていたのを修理したものだ、 と世話人の男性達の話であった。四十九番の扁額も、共にこの建物内にあり、観音堂内にあるものと思っていた不動尊は、意外なところにあったのである。
この折、ここの世話人の方から、珍しい資料を入手した。それは昭和三十二年の酉年のご開帳の時に、百不動尊の信者の便のためにと、 川口市の飯塚町に住む石田善兵衛という七十三歳の篤志家が、一ヶ月かけて作成したという足立百不動尊の巡拝案内記である。
これは川口市本町の、成田山明王寺が発行元で、毎月発行の六三信報という寺報に掲載されている。それによると、戦後はじめて行なわれるご開帳が、 4月5日から15日までの11日間行なわれる。とご開帳の前年、昭和三十一年八月に発行したものである。
それには、番号と寺院名、所在地、それにご詠歌が記入されており、戦後の混乱から、少しずつ日本が立ち直ろうとしている時代のもので、 戦後はじめてのご開帳を迎えるためのこの記録は、変遷した各寺院の、そのころを知る貴重な資料である。
既にこの時代に、百不動の札元は行弘寺になっており、特にこの行弘寺では、ご開帳の準備に忙殺とあるから、余ほどの準備が必要であったと思われる。(高島英一著より)

2009年9月7日参拝

御詠歌   やまかはや のへや田嶋のへたてなく 意の如に 輪る寺かな

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