鳩ヶ谷市南5-14
吾智堂
大学院から、すぐ前方にみえる西方寺の前を通り、新青木橋をわたる。ここから鳩ヶ谷市に入る。この道を500mほど行くと、右手に神社がみえる。
この神社は十二所神社といい、ここの説明によると、昔から、前田の権現さまといわれていて、この地区の守護神として信仰をあつめていたが、 明治40年、法令によって八幡社に合祀されてしまったのを、昭和26年氏子たちが集まり、旧社地に戻したのだという。
90番の宝林寺は広い道路から見て神社の左側にあった。現在の南5-14の地域である。
この宝林寺の元住職であった近野政秀氏に伺ったところによると、氏はもとは関西の出身で、戸田の平等院から戦後この寺へ派遣されたが、ここに来てみると、 明治の廃寺後そのままになっていた廃屋同然の建物で、戦後の混乱期であったから、何人もこの寺に住み込んでいて、建物の中はススで真っ黒になっていたらしい。
この寺は神元山宝林寺といわれていて、氏が宝林寺に来たのが昭和23年、昭和27年には大蔵省がこの土地、221.7坪を民間に払い下げたということである。 ここにあった墓石はここから南の方に行った吾智堂(南5-10)にまとめられている。
この吾智堂の名は、吾智如来をまつるからなのだそうで、500坪ほどの墓地の奥に、この墓地のいわれが刻まれている。 それによると昭和38年檀家が集まり、昔は前田字前339にあった墓石をまとめてここに移したのだという。
この吾智堂についてこのお堂の前に住む加藤勝治氏が、鳩ヶ谷市の郷土鳩ヶ谷に昭和58年から平成元年まで6回にわたって、 お墓の移転の状況をこまかく記録している。その中には宝林寺の名も2回にわたりみえる。
この加藤氏に聞くと、昔は吾智堂の周辺は墓地が道路の両側に点在していて、それをまとめたもので宝林寺からのものもこの中にあるとのことだった。 以上のような状況で宝林寺はなくなり、墓石は吾智堂に運ばれ、そこにあった不動尊立像は、前記、近野氏宅に保管されている。扁額は不明である。
永い間探してわからなかった88番般若院、89番大学院を探し出すことができた川口の郷土史家沼口信一氏を紹介して頂いたのが、この近野氏である。(高島英一著より)

2009年9月16日参拝

御詠歌   つとめてし たみの前田のみのりよく つめる宝の 林とそみる

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