川口市青木5-19
大学院は88番般若院と同じく、完全に消滅している。この所在をめぐって川口の郷土史家の平野清次氏より、五右衛門橋の近くであると教えて頂いたのだが、 場所が特定できず困っていた。巡拝図や巡拝記にある距離から、この近くにまちがいないので、ずい分と歩き回ったが、ようやく探しあてることができた。
平成5年の酉年、ご開帳まもない時のことであった。 その場所は般若院(オートレース場の鈴木家の墓地)からオートレース場ぞいに氷川神社右となりの鈴木家駐車場(石の不動尊と88番扁額の入った祠のある)の前を通り、 次の信号の交叉点に、田口家の住宅が建てられているが、ここに大学院があったのである。
この大学院の所在を知っていた稲垣喜代治氏を紹介して頂いたのが、川口市の郷土史家沼口信一氏で、ここには大学院と刻まれた石が建っていたのだそうで、 稲垣氏の話を要約すると次のようになる。
稲垣家は、大学院の鈴木家と親戚の関係にあり、従って大学院のあった場所を覚えており、大学院から少しはなれた、 青木4-22、あたりに(五右衛門橋に近い)昭和40年頃まで、30基以上の墓石が並んでいたが、これが大学院の墓地であった。 この中には自然石の前面をくりぬいたような人の背丈より大きな墓石に、鈴木多門の墓と刻まれていたのを覚えている。
ここの墓石群からは鎌倉時代の板石塔婆も多数出たのだそうで、墓石の中で新しいものは、大正の初めごろのものがあった。 この墓地を稲垣家では、ご夫婦で毎年線香をあげたり、草むしりをしたりしていたが、昭和40年頃、突然工場になってしまい、30基以上あった墓石は、 どこへいったのかわからなくなってしまったという。
以上の通りなのだが、現在、坪100万円以上するであろう、この辺の地価のことを考えると、信じられないようなことがあったらしい。
沼口氏の話では、幕末のころ、般若院と大学院は両方とも修験の寺で、両者とも鈴木姓であったが、争いをおこし、最終的には般若院の方が栄えることになったようで、 大学院の方はその後、男子が生まれず、やがて絶えてしまったという。
大学院と彫られた石はどこへ消えてしまったのだろう。また大学院墓地の30基以上の墓石もどこへ消えたのだろうか。(高島英一著より)

2009年9月16日参拝

御詠歌   のりのみち たふときことを下青木 さとに大きく 学ひ寺かな

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送