上尾市谷津2−3−27 キンカ堂B館西・谷津公民館東側 |
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上尾駅に近く、賑やかな繁華街の一隔にある。 この境内にだけ縁があり、静けさを作り出している。 通勤、通学の通り道でもあり、気候の良い時には樹陰のベンチで寝転ぶ人もいる憩いの場でもある。 境内には、観音堂の他に、ブランコやシーソーもあり、地元の人たちには、谷津の観音様として親しまれている。 草創は、後花園天皇の時代(1428〜64年)で、柏座の日乗院の末寺だったが、明治5(1872)年に廃寺となり、観音堂も廃堂となった。 しかし、地元の人々の手で復興し、大正8年に改築、さらに、昭和58年に起工、翌59年に落慶し、現在に至っている。 観音堂近くの墓地には、一見して住職のものとわかる卵形のお墓があり、承応2(1653)年とか、元禄10(1697)年という文字は読み取れるが、縁起その他の詳しいことはわからない。 本尊の木造十一面観音立像は、市の文化財に指定されている。 「足立坂東観音霊場記」によると「立像2尺1寸1分の臂の十一面観音、行基の御作。惣御尊体一本木にて作りたる霊像にして、殊勝第一霊験あらかたなる観世音なり。むかしより別当職を務むる住僧も容易に尊像を拝見し奉ることあたわず」とある。 今でも秘仏とされ、12年に1回、午年の年にご開帳になるだけである。 大変、変わった彫刻で、桧の一本づくりで、背面は平らな板状になっており、一番厚みのある鼻の部分の厚さが6.5センチ、頭の上の十一面はすべて前向きの板彫りの仏像である。 行基の作となっているが、行基は奈良時代の人であり、仏像をすぐれたものとするために行基作とする例はあまりにも多い。 現在の調査では、鎌倉末期(1333年)〜室町初期(1334年)の作品と見られている。 背部のあて木には、永享4(1432)年に修理した旨が墨書されている。 十一面や体のつくりはやや粗いが、面相は穏やかで、良く出来ている。 観音巡礼 山田計司著より 2009年5月4日参拝 【御詠歌】 はるばると巡りきたりし皆応の 寺のみ法に逢うやこの旅 |
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