さいたま市南区大谷口3025
明治4年9月に廃寺になっている。一番の石碑のお堂から、あかつき幼稚園の方へ少し行くと幼稚園の看板が突き当たりにみえる。
その手前の十字路を右に折れて、少し行くと左手にブロックを高くつんだ墓地がみえてくる。 これがこの辺の人達の言う通称、地蔵堂で、この周辺は区画整備されて、宅地開発により家がどんどん建てられている。
階段を上がると、集会場のような建物が中央にあり、そのまわりをお墓がとりまいている。 この墓石の中に明音院の僧の墓石もあるのだがよくわからない。左の奥の方らしいのだが確認できない。
饗庭家の絵図によると、この辺に間違いないのだが、昔を知る人の話では明音院は地蔵堂の少し玉林院よりにあって、井戸や墓があったが、 道路整備で墓を地蔵堂へ移したのだという。地蔵堂は明音院の墓地の一部でもあったらしい。
浦和市文化財時報醍85号には、この明音院の墓石について、次のように紹介している。 明音院は玉林院墓地から東南の一帯にあり、現在の地蔵堂左奥に墓石が残っている。
今回確認できたのは八基で、最古は寛永10(1633)年の権大僧都祐尊、最新のものは寛政11(1799)年の権大僧都法印(法名不明)である。
歴代で示すと、右のほかに古い順に、天和元(1681)年の円俊、享保3(1718)年の順長、享保5(1720)年の順輝、宝暦3(1753)年の順喬、 明和3(1766)年の順弁、寛政10(1798)年権大僧都(法名不明)となる。
明和3年と寛政10年のものには、僧侶の身分を示すもののほかに、三僧紙という峯入りの回数にかかわるものもある。(高島英一著より)

2009年8月26日参拝

御詠歌   あしやらそん ちゑのつるきの明かに 音つれよもに ひゝくたふとさ

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