さいたま市南区大谷口3133
付近
2番の明音院から、1番の石碑の堂へ戻る。そこから見える歴代住職の墓地の前を通って中尾神社の方へ行くと、右手に畑がひろがり、 ゆるやかな丘のような畑の頂上に送電線の鉄塔がみえる。その鉄塔から約30mはなれて、高さ1.5m、幅1.1mの石碑が建てられており、 それには子聖大権現、足立第三番西林寺と刻まれている。
畑の中に建っているのですぐそれとわかるが、地主の星野氏に聞いても、畑を耕しても今は何も出てこないという。
ここは小高い丘になっているので、下の方にあかつき幼稚園の緑と白の屋根がみえる。石碑以外に、西林院の手がかりはないものかと、 周辺の古老にきいてみたが収穫はなかった。
浦和駅から東口の駅前通りを北へ行くと大善院という寺がある。駅のホームの端くらいのところである。この寺は、 明治の初め玉林院や西林院などが廃寺になったあとで、明治12年に玉林院の不動尊を本尊として開山したといわれる。
現在、百不動尊3番札所になっているこの寺には、第3番西林院の扁額がしまってあった。虫が食い、古色そうぜんとしているが、 まぎれもない百不動尊の扁額である。この扁額がここにあることで、玉林院、明音院、西林院の仏像や仏具が廃寺の折にここに運ばれたことが証明される。
大善院の本尊は15センチほどの不動明王立像だが、もう一体、火炎の色のあざやかな、大きな不動尊が左側にある。この寺には、さらに、 役の行者の彫刻がある。これも玉林院から運ばれてきたものといわれ、平成5年3月に浦和市は、これを有形文化財に指定している。
ところが、これは、39番横曽根の東福院にあるものとほぼ同じ造りで、同一人による作とおもわれる。 この大善院の金子住職によると、新編武蔵風土記稿には、役の行者が玉林院の本尊と書いてあるので、この像がそれではないか、とのことだった。 本堂の軒下には、けやき造りの大きな、神変大菩薩の扁額がかかっている。新編武蔵風土記稿には、玉林院について次のように書かれている。
玉林院
本山修験 聖護院末 中尾山と号す
黒珍といえる僧 延歴9(791)年開きしよし伝れどもさだかならず
本尊は神変大菩薩にて長二尺許
この神変大菩薩とは、役の行者のことで、これにより、1番玉林院の本尊は、役の行者、3番の西林院の本尊が、現在の大善院の本尊の不動尊、 とすると大善院の本堂内にある。火炎の色あざやかな大きな不動尊は2番明音院の本尊ではないだろうか。
平成5年3月に浦和市が文化財として、新たに指定した大善院の役の行者について、浦和市文化財時報は次のように伝えている。
有形文化財(彫刻)
木造役行者及び二鬼像 三軀
東仲町9-8  大善院
作り付けの岩窟の仲に、中央に役行者が置かれ、その前方向かって左側に前鬼、右側に後鬼が配されている。総高51センチ、岩座幅48.5センチを測る。 役行者は、像高35.6センチを測り、布帽を被り、身に法衣に袈裟、さらに両肩に羽衣を纏っている。
右手には錫杖、左手には経巻をもち、 足駄を履いた両足を前に倚坐する。青色の前鬼は像高12.4センチを測り、右手に斧を持つ。赤色の後鬼は像高12.5センチを測り、 右手に宝棒、左手に水瓶をもつ、役行者は寄木造り、玉眼、彩色、二鬼は一本造り、彫眼、彩色である。各像の彩色及び役行者像の両手先、 持ち物などに後補と思われる部分もあるが、全体としては保存は良好である。
岩窟の中に二鬼を従え、岩座の上に倚坐する通例の役行者像で、ほぼ定型化した姿で表わされ、製作時期としては江戸時代中期と考えられる。 役行者像の造立、中世に始まるが、近世にはいり、里修験の活動が活発になり、こうした定型化した像が各地で作られるようになった。
大善院は天台寺門徒の寺で明治12年に浦和市中尾にあった本山派修験の中心寺院、玉林院(明治初めに廃寺)の本尊不動明王を本尊にして開山した。
この際廃寺になった玉林院やその配下の西林院の諸仏像が移されたと伝えられている。現在では、その事実については確認できないが、 この像は玉林院や西林院から伝来された像の可能性も考えられるものである。
こうした玉林院などを中心として修験道の盛んであった浦和地域に伝わる役行者像の一例として保存価値は高く、貴重な資料といえる。(高島英一著より)

2009年8月26日参拝

御詠歌   かみとしも いつれのみねも うこかしな 西の林の けふりにきはし

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