さいたま市浦和区元町1-21-1
 八雲神社境内
7番の金剛寺を出てから北浦和駅方面へ浦和越谷線を行く。車は多いし、道はせまい。バスも通る。 人口44万の浦和市と29万の越谷市を結ぶ道路が、この道路一本しかない。産業道路をこえて少し先を右に入って、駅の方へと行く。 本太4丁目あたりにくると、区画整理されていて割りとわかりやすいが、元町1丁目まではかなりの道のりである。
昭和の時代に本太の光善院があったといわれる、石井頼雄氏の話は次のようになる。 明治のころに神主(先達)から不動尊をゆずりうけた人がいて、それを頼雄氏のすぐ近くに住む石井紋次郎という人がさらにゆずりうけた。 紋次郎氏の建てたお堂は、一間半四方の広さで不動尊は大きな台座をもつ立派なものであったが、この不動尊が大正のはじめ頃、こともあろうに盗まれてしまった。
そのために紋次郎氏は東京へ行って小さな替わりの不動尊を買い求めてきた。
昭和44年の酉年までは、多くの巡礼をここで迎えたという。 ところがこの不動堂も時代の波に勝てず、道路整備や土地の売買で3回も移動させられることになり、最後に消滅ということになったようだ。
紋次郎氏も亡くなり、2キロも離れた木崎の木皇山不動堂へ、お不動様だけ引き取られることになる。 不動尊の移転先の木皇山不動堂は、山田栄一氏(木崎2-1-1)が管理しており、木皇山とは木崎の木と皇山町の皇をとってつけたようだ。
この不動堂は13番領家長覚院とは、200mしかはなれておらず、さきほどの山田氏の自宅から100mほどバス通りを岩槻方面に行った左側にある。 赤い鉄の門がある10坪ほどのこのお堂は、山田氏を中心に10人ほどの世話人で管理されている。
お堂の中は上段に、木皇山不動尊、中段に小さな荒沢不動尊がまつられている。これが、8番、光善院の不動尊で、石井紋次郎氏が浅草から買い求めた不動尊である。 何故、荒沢不動尊なのか、山田氏も、石井氏もわからないという。
扁額は見当たらないが、ガラスの入った今様の額に、百不動第八番光善院の名と、ご詠歌が書かれていた。
この山田氏のところでも不動講が存続しており、女性は毎月28日に30人ほど、男性は10人ほどが毎月1日に、お経をあげて祈りをささげるという。
盗まれたり、他の不動堂に間借りすることになったりで、8番の不動尊は数奇の運命をたどったことになる。
ところで、安政年間に光善院はどこにあったのか、ご開帳の折、14番瀬ヶ崎の東泉寺のご住職から、光善院は三角稲荷の近くにあった。 そのことについては石井彦さんが知っているはず、と教えて頂いた。4〜5年前に4番吉祥寺の住職さんも、三角稲荷のところといわれたことがある。
三角稲荷は京浜東北線の北浦和駅の少し南寄りの線路の上に、新浦和橋、という陸橋が新設されたが、そのわきにある。 そこは300坪ほどの雑木林の中に1.5間四方の古いお堂があり、石の鳥居と木造の赤い鳥居がみえるが、三角稲荷とはどこにも書いてない。 なぜ三角というのかわからないが、地形が三角だからということらしい。
前記のお二人のご住職のお話から、稲荷神社と8番光善院が並んでここにあったのではないかと思い、 ながい間この周辺を探したが光善院の元の位置を特定できないでいた。
ところが意外なことから、この所在を確認することができたのである。 昭和44年頃まで、光善院のあった石井頼雄氏の家から北の方へ300mほどのところに薬師堂がある。頼雄氏のご案内で知ったのだが、 500坪ほどの広い墓地中央に古びたお堂があり、新旧の墓石が並んでいる。古い墓石が多く、そのほとんどが石井家の墓である。 この墓地の左奥すみに石井賢一氏の累代の墓地がある。
大小の墓石の中に、光泰寺、と刻まれているのが読みとれる。この墓地は頼雄氏の説明によると4番吉祥寺の薬師堂であるという。
この石井賢一氏(亡くなっていた)宅に秘蔵されていた古文書の中に、中尾山御役所(玉林院)にあてた弘化3(1847)年の文書控えがあり、 それに光善院と書かれ印鑑まで押してあったのである。さらにこの石井家の庭に四基の大きな石造物があり、その中に本太山の文字が見られる。 ということはこういうことになる。探していた、光善院は現在のこの石井家であって、本太山光善院光台寺と称していたのである。
石井家の屋号は、法印、という。法印とは僧の位のことで僧網位階の最上級とされている。石井家の墓石の中にも見えるだけで三基ほど確認している。
石井夫人によると太平洋戦争のあと、古文書や刀剣等貴重なものが数多くあったが、夫人の意思に反して処分されてしまったという。 さらに石井家には藤原鎌足以来の家系図が保管されていて、代々僧職であったという。
石井家は、浦和市立高校の南側にグランドがあるが、その西にあるテニスコートのさらに西にある。 三角稲荷とは、300mほどはなれているが、この稲荷社も光善院から移したものである。
この石井家のさらに西側50mほどのところに八雲神社がある。いちょうの大木が二本あるので目印になる。そこには石の不動明王や、 三峯山大権現等の石造物がみられ、往年の光善院の一部であったことがわかる。(高島英一著より)

2009年8月26日参拝

御詠歌   めくりくる ひとことにみな 本太の 光に善そ みちひかれぬる

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