さいたま市南区太田窪2310
いよいよ最終の百番をめざす。99番善応院を出て、これまで来た道を先へ行くと車道に出る。
この道はいつでも車の量が多い。ここを左へ、安楽寺の方へ向かう。少し行くと、左側に浦和市の有形民俗文化財に指定されている舟型庚申塔がある。
高さ1.2mで、寛文4(1665)年の銘がある。ここから200mほど先にV字のように右に入る道がある。この角にも、明和7(1771)年の庚申塔がある。
この道を行くとすぐ武蔵野線に突き当たる。昔とちがい、今は、左の方からまわって、陸橋を渡ることになる。線路沿いに降りて行き、その先にまた別れ道がある。
ここには、高さ1m余の石地蔵尊があり、正徳5(1716)年の文字がみえる。この右の道を登って、丘を一つこえると、左手に善前小がみえる。
ひとまわり学校を歩き、校門の前を右に折れると、善前行弘寺がみえる。
産業道路を渡ると、すぐ下に百不動の供養塔がある。お寺は赤と白のコンクリート造りだが、近く建てかえる計画があり、その看板が出ている。
お堂の内をのぞくと正面に不動尊の火炎がみえる。最近サンゴの不動尊をここの住職の川合さんが買ってきて本尊としている。 上の方に古い写真が額に入っているが、建てかえる前のお堂のようだ。扁額は外にかかっているが、新しいもののようだ。
このお寺には百不動石碑の他、明治26(1893)年建立の星野順栄師の寿碑や、嘉永2(1850)年の高さ2mほどの石塔が入口の両側にあり、 片方に、伊刈村連中、一方に当所下連中とある。
善前のここは下で北の方が上ということがわかる。人名も入っているが、その上に蕨とか八丁とかあるから、かなり遠方からの寄進があったことを示している。
これにも星野順栄と大きく名が入っていた。
この寺にはいちょうの大木があるが、その下にツバキの大木があり、これは珍しいのだそうで浦和市の天然記念物に指定されている。
この奥には、大きな阿弥陀如来の石像の前に新しい墓石が、200坪ほど広がっていて、現在売り出しのようだ。
最近、浦和典礼会館を建設、川合住職はご多忙のようである。
道路をはさんで、左手にも墓地がある。入るとすぐ3m余の大きな石碑があり、みると太平洋戦争で散った5人の兵士のために建てられたもので、氏名の下に、 中支、ビルマ、ルソン、ニューギニア、硫黄島と戦死した地名が入っている。
300坪ほどの、この広い墓地は、古い墓石も含め、一杯に埋まっているが、この墓地は行弘寺のものではなく、ここの善前地区と、 新田地区の共同墓地で、昔からのものらしい。建物が一つ入口にあるが、阿弥陀堂といっている。
寺の隣だから、当然、行弘寺の墓地と思っていたが、昔の行弘寺は修験の寺だったから、墓地を持たなかったのであろう。
この行弘寺の近くの日暮家には、今でも不動尊をまつり、修験者の、持ち物もいろいろあったというから、昔は、行弘寺ゆかりの家であったにちがいない。
土地の古老の話によると、行弘寺は、昭和43年火災にあって焼失したが、この頃浦和、川口でお寺の放火が続いて、新興宗教のせいだ、 とうわさがひろまったことがあるそうだ。川口市の善光寺(34番 東明院)が火災にあったのも、同じ年である。
現在の川合住職は三代目で、その前の星野住職は、お布施をぜんぶ酒代にかえてしまうほどであったというから、大ぜいの弟子たちに慕われた星野順栄師も、 どんな心境で行弘寺の変化を眺めていることであろう。(高島英一著より)

2009年9月20日参拝

御詠歌   百ところ めくりめくりて善前の 行なひ弘き 寺におさめつ
粕谷なる ぬまのあらなみしつまりて さゝくる 龍の燈し火の山

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