さいたま市緑区大間木1906
氷川女体神社東側、水神社西側、県道103号線に面して不動堂はある。
清泰寺を出て、赤山街道を南へ向かう。少し先に行くと、大間木氷川神社が左に見える。
境内は通勤者の自転車置き場のようになっているが、神社の入口に、赤山街道のいわれが書いてある。
それによると関東郡代の伊奈氏が寛永6(1629)年陣屋をかまえた赤山(川口)に向かう街道で、起点は与野市あたりと考えられ、 木崎、三室、尾間木から八丁提を通って赤山へと通じていた。
伊奈氏はこのあたりで代々冶水事業に功績があったという。
赤山街道は東浦和駅でいったん途切れてしまうが、駅前の広い通りを行くと、左に神社というか、小じんまりとしたやしろがある。
力石が二つ置いてあるが、20年くらい前は雑木林の中に、転がっていたのを見たことがある。
地元の人たちの熱意で、お堂を再建したものなのだろう。駅が出来て、このあたりはすっかり変わってしまった。
この先にある附島橋という、見沼用水東縁りの橋を渡ると、すぐ見沼通船堀公園の入口がある。
この辺は、大きな竹林になって、見違えるように手入れされている。
この先に、附島女体神社があり、ここから道路が狭くなる。宮本の武州一宮女体神社の例もあるように、昔人は男体宮や女体宮を作って、 生命の神秘を信仰と結びつけたものらしい。
この道は歩道もないし、車の量は大変なもので、歩道のないこの道は危ないことこの上ない。この先に稲荷社があり、その二、三軒先にお堂と墓地がある。
これが20番八丁不動堂である。このあたりの人はここを観音堂といっており、正面のお堂には、八丁集会所との看板がさがっているが、これが観音堂で、 中に観音様をまつる。その右、手前に小堂があり、昭和の終わりごろは、倒れそうなお堂であったが、現在は新しく建てかえられていて、格子の中をのぞくと、 立派な不動尊を祀っているが20番の扁額は、観音堂の方の軒下にかかげられている。
観音堂を中心に古い墓石がひろがり、裏手には、見沼通船堀が通り、林の中でお墓が静かなたたずまいを見せている。
近くで聞いたところによると、不動尊の信仰も、年寄りが4人になってしまい、講もないし淋しいものになってしまった。昔は不動参りをしたのに、と話していた。 平成5年のご開帳の折、この観音堂内を拝見したところ、堂内の左の宮殿に観世音菩薩が納められ、中央に小さな不動尊立像がある。
観音堂前の小堂の不動尊が二童子をしたがえた立派な座像なので、こちらを本尊と思い込んでいたのに意外であった。
何故、不動尊が二体あるかについて、ここの世話人である小島利博氏に聞くと、小堂の不動尊は、 昔、不動講が盛んであった頃、江戸浅草で求めてきたものといわれ、通船堀が、交通や商業の中心として活況を呈していた頃、 庶民の往来も多いので秘仏でない不動尊を、という希望にこたえたものらしい。
誰が買ったのか、いつ頃の作なのかわからない。
氏の子供の頃は行者がきて護摩をたき、祈禱が行なわれるのを見たという。ちなみにこの小島氏は通船堀の船頭の子孫で、 浦和市で唯一の海運業(水運でなく)を営む人である。
(高島英一著より)

2009年9月3日参拝

御詠歌   しはかわを こえくるひとは八丁の 不動のつなに みちひかれぬる

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu