川口市東川口5-21-19
平沼町会会館
西光院を出て、来た道を先に進む。車道の脇は階段になっており、その下の道を東川口駅の方へと行く。
駅を通り抜けてしばらく行くと、一本木坂下の信号に出る。これを右へ、区画整理された直線道路を行くと、綾瀬川に突き当たる。
これを左に北上すると、少し先の横山喜八郎氏の家の脇に、23番平沼弁天坊がある。
この弁天坊は、長い間探してわからなかったところで、川口市の東北の端に平沼という小字があることから、 巡拝記にある西光院から2キロの場所は浦和越谷線の畷橋付近と考えて探していた。
このような場合、やはり専門家にきいてみるもので、川口市市史編さん室の高橋さんに平沼の横山喜八郎氏を紹介して頂いた。
早速、横山氏を訪ねたところ,氏は、このあたりの自冶会長をしており、子供の頃からの記憶を呼び戻したりして、次のような弁天坊の移り変わりを話してくれた。
大正の初め頃、横山氏の家の前を流れる綾瀬川は湾曲しており、水の流れをよくするために、川を直線にする工事を行なったのだが、 この工事によって弁天堂は川口市から岩槻市側になってしまった。つまり川向こうになってしまったのである。
現在でも横山氏の所有する田畑、川向こうの岩槻市側にある。昔の弁天堂はそこにあった訳で、その河川工事のあと、 横山氏宅の前に、弁手堂を移したが、これもそのあとで区画整理にあって、とりこわされ、 現在は横山氏の広い敷地内に、町会会館が建てられ、その右横に弁天堂をまつっているのである。
この入口にはその昔対岸にあった弁天堂の石の鳥居が往時をしのぶかのようにおいてある。破損しているが、ひと目で鳥居とわかる。
横山氏によると子供の頃、父から昔の弁天坊は、池の上にタイコ橋がかけられ、立派なお堂であったのに、と残念がっていたのを聞いたそうだ。
鳥居の柱の太さは26センチもあり、往時の隆盛ぶりがわかろうというものである。
不動尊は小さいが、その町会会館の中にまつられ、23番の扁額もそこで発見することができた。
不動講も8人しか居なくなってしまったが、月1回、この場所で食事当番持ち回りで開かれている。
この会館の入口に石造りの祠がある。この人たちに聞いてみると、これはノラ弁天というのだそうで、弁天様からはなれたところにあったものなのだそうだ。
後日、川向こうの元の弁天坊跡に行って見たところ、田んぼの中に池の跡が二つあり、堂の跡と思われるところは竹やぶになっているのを見ることが出来た。(高島英一著より)

2009年9月3日参拝

御詠歌   なみかせの たつこゝろなき平沼は うこかぬのりの ちかひなるへき

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