川口市神戸303-3
 神戸町会会館
真乗院出て外郭環状線に沿って右に行く。昔の道は、この工事ですっかり変わってしまっているので、この方がわかりやすい。
少し行くと東北自動車道と交叉する地点に出る。しかし、これはもう地点などというものではなく、巨大な面であり、広さである。
雲をつくばかりの鋼鉄のかたまりがアーチを画いて天をかけめぐり、人間を圧倒する。ここに来ると東北道を横切る歩道がない。
やむを得ず、東北道を北の方へ200mほどまわり道をする。車を通す道のために、歩行者はまわり道をしなければならない世の中になった。
お不動様もきっとびっくりしているに違いない。
環状線に戻り、レンガを敷き詰めた歩道を歩いて行くと、やがて巨大な送電線の鉄塔があり、その向こうにも別の送電線の鉄塔が見える。
これを目標として行く、近くまでくると神戸歩道橋があり、その下に右に入るせまい道がある。その先に神戸町会会館がある。
ここまで真乗院から約3キロの道のりである。
神戸と書いてゴウトとはよみにくいが、コウベとかカンベとかが普通なのに地名はややこしい。いずれにしても、ここが神戸宝泉院跡で、 会館の中には立像で50センチほどの青不動尊をまつっている。
会館の裏手は小高い丘になっていて、登ってみると、道の両側に墓地がひろがる。安政の時代は、 この見晴らしのよいところに、宝泉院があったのかもしれない。
かつてここを訪れた時に、ご婦人達が5〜6人不動講をひらいており、酉年には30ヶ所くらいをバスでまわるのだと話してくれたことがある。
このすぐ近くには熊野三社や、他にも祠がいくつか見られることから、神戸の昔の人たちの信仰心の厚いことがわかる。
平成5年のご開帳のおり、この宝泉院の世話人の榎原利男氏の話を聞くことができた。予想通り山の上に寺があったのである。
氏の話によると、この会館の前の坂道を登ってお墓を通り、突き当りの住宅あたりに、明治のころは寺があり、 明治8年に学校制度がしかれてからは、この山を学校山と呼び、寺が校舎にとなった。
現在でも、地元の人達は、この山を学校山とよんでいる。年代は不明だが、左手の墓地の奥に宝泉院は移され、昭和に入って現在地に移された、とのことであった。
(高島英一著より)

2009年9月3日参拝

御詠歌   あふきみよ ちかひはふかき 神の戸の 宝の泉み わけるみ寺を

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