川口市道合1221
大徳寺
この長源寺については、長い間探していてわからなかったもので、その発見のいきさつをメモしてみることにしょう。
道合に大徳寺という大きな寺があり、広い境内には北川口幼稚園を経営している。寺はコンクリート造りで、墓は広い。
かつて長源寺は、この寺の末ではないかと訪れたことがあったが、昔のことでわからないとのことだった。
川口市の市史編さん室で聞いてみたがわからず、ここで紹介された郷土史家の平野清次氏を訪ねて聞いてみたが、残念ながらわからず、困っていた。
ところが後日、氏からご親切なお便りを頂いた。
それには長源寺については、武蔵国郡村誌によると、道合村の東南にあり縦9間3分5厘、面積72坪、 新義真言宗豊山派、大徳寺の門徒なり、明治7年10月廃寺となる。
と記されており、大徳寺にも聞いてみたが廃寺後、本尊その他を引き取ったらしいが、 資料がなくはっきりしない、とのことで、その跡地は外郭環状線国道298号建設の際、消滅したとのことであった。
百不動巡拝記にある距離から計算すると、どうしても神根小あたりであると判断して、それからその周辺を探した。
見晴らしのよい神根小は、昔、寺院があってもおかしくない場所である。
そこで、このあたりの古老に聞いてみたがわからず、平野氏に再連絡したところ、掘り出し不動というのが神根小の西側にあるとのことだったので、 これを探し歩いた。ところが、これが中々見つからないうちに、大徳寺近くで矢作甚太郎氏(道合1064)に会い、長源寺の手がかりをつかむことが出来た。
氏は高齢だが、記憶をたどって次のような話をしてくれた。
長源寺は、昔は大徳寺の正面むかってすぐ右の脇にあった。
明治のはじめに大徳寺にすべて引き取られたが、大正時代にいくつかの石造物が残っているのを大徳寺に運んだ。
その頃は、山崎という住職がいて50坪くらいの寺であった。
廃寺後に、大徳寺にまとめられた無縁仏の中の、矢作但馬之助、中山源山、矢作庄兵ヱなどの名の入った墓石は長源寺にあったものである。
不動尊は大徳寺の本堂のうらにしまってある。とのことだった。
大徳寺はこの矢作氏の家から100mほどのところである。
大徳寺に行って見ると、無縁仏は、鐘つき堂の前にまとめられてあり、たくさんの墓石の中に、緑泥岩の板石塔婆が何枚もあることから、 これらが全部長源寺から来たものだとすると、寺歴はかなり古いことになる。
大徳寺には、若い井川という住職が関西から来て、寺歴に関心があり調べたようで、27番の扁額が物置にしまってあるのを見つけだしたが、 不動尊はあるが確認できないという。
矢作但馬之助の墓石は探したがわからず、後日、あらためて調べたところ、無縁仏の脇に1mほどの高さの石造物が5基並んでおり、 右から二つ目の石に下に小さく矢作但馬之助と確認できた。その上に寛政4(1793)年と刻まれており、丁度200年前のものである。 前記矢作氏を再訪して聞いてわかったのだが、但馬之助は初代の住職だという。
矢作氏の祖先の墓石であることは間違いなく、この他にも研究しておられるようなのだが、独自の研究で記録に残してはいるが発表はしていないという。
この大徳寺へは神戸の宝泉寺から、外郭環状線を西へ500mほど行く。二本目の自動車道を左へ入り、環状線の下を抜けるとすぐ左に墓地が見える。
これが大徳寺である。 26番からの距離は500mほどである。
長源寺の跡は現在会社の建物があり、その横の細い道の奥に大きなケヤキの木がある。この、木の下が前記矢作氏の家で、入口には稲荷社をまつっている。
(高島英一著より)

2009年9月3日参拝

御詠歌   うこかしな とひくるひとは道合の なかれも長き 源の寺

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