東京都北区浮間
36番観音寺の裏手
三十六番の観音寺の奥さんに伺ったところによると、昔、大教院はこの近くにあったらしいが、どこにあったかはわからない。
大教院にあった墓はこちらに移されている。 この寺の裏に桶屋さん(屋号)という家があるが、そこに宝篋印塔があるときいているとのことであったので、手がかりになるかと思い、訪れると、何とここが大教院跡だったのである。 この一画は黒田家と山口家の住まいになっていて、黒田家から嫁いだ山口家の奥さんが、ここが大教院といわれていたと母からきかされている、 と説明してくれたのである。
この両家の間にある石造物は宝篋印塔でなく石灯篭であった。この灯篭は言い伝えによると、昔雨乞いに灯を入れて祈願したものなのだそうで、 下には五穀豊穣の文字がみえる。灯を入れる部分は、普通の灯篭と違い中をくりぬいたように、一方しかあいておらず、強い風で灯を消さないためなのだろう。
この一画の中に、昔は小さな土盛りがあって中には、金の五鈷杅が埋まっているとの言い伝えがあって、山を崩したが何も出なかったという。 この辺の昭和のはじめは、一面の田んぼで、点々と農家のお墓があったようで、急速な都市化で観音寺へ、そのほとんどがまとめられたものらしい。
三十六番観音寺の門の前方にも大教院の墓があって、整地の際、夫婦と思われる二体の人骨と髪の毛と笄がでてきたという。 現在は不動尊も扁額もなくなって、その行方も知れない。この山口家でみたのだが、この浮間のうつり変わりをしらべて記録に残した人がいる。
金子喜久蔵という人で、今は亡くなってしまったが、近世浮間村誌を残している。 大教院のことも記載があり、ここが大教院であることを調べた金子氏が記念においていったものであろう。(高島英一著より)
尚、上の写真は36番札所観音寺境内のものです。

2009年9月7日参拝

御詠歌   よるへなや 浮間のふねにのるひとは 大き教の つなにひかれて

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu