さいたま市桜区中島4-7-21
花蔵寺からさきほどのバイパスに戻る。バイパスを渡り、大宮の方へ北上すること10分ほどで、中島の歩道橋に出る。 この先を左に入るとすぐ中島万行寺がある。建物はかなり古く墓もそれほど広くはない。
扁額もみえないので右横の管理人にきいてみると、ここは檀家の人達で管理しており、堂内には仏像が何体かあるが、不動尊はここにはなく、 この先の中島自冶会館にあるとのことだった。その自冶会館はここから50mほど北にある。
一見、農家の建物かと思われる、平屋建ての会館の左に、祠が二つ並んでいるが、八重垣神社という。出雲の八重垣姫と関係があるのだろうか。 会館の中の床の間に、うるし塗りの大きな厨子に納められた不動尊と、その上に五十六番の扁額もあった。
この中島自冶会館のことに詳しい三角伊三氏にきくと、円乗院(六十二番)の住職さんからも万行寺に置いた方がよいと云われているのだが、 昔からここに置いてあるので、そのままにしている。今の自冶会館を立てる前はここにお堂があり、ここをお寺と呼んでいた。
しかし、このお寺の名は何という寺か記憶にない、とのことであった。なぜ自冶会館に不動尊をまつっているのか、万行寺になぜ置かないのか。 三角氏のいうお寺というのが万行寺のことではないか、そうだとすると、万行寺が二つということになるが、その点はどうなのか。
ここは円乗院の末寺ときいたので円乗院に行きご住職にきいてみたがわからず、大沢伊次郎氏を紹介された。 この大沢氏によってこの問題は氷解したのだが、氏の話を要約すると次の通りになる。昔の万行寺は鎌倉時代からのもので、大きく広い敷地をもつ立派な寺であった。
いつの頃か時代は不明だが、明治のはるか以前に衰微したものらしい。現在の万行寺も昔は阿弥陀堂といって、広い境内の中にあったお堂の一つである。 時代がうつりかわったが、昔の通り万行寺のあったところに、不動尊をまつるべきであるとのことで、建物は現在自冶会館になってしまったが、 そのまま祀ってあるとのことであった。
大沢氏の家は、自冶会館からさらに先の角地にある。このあたりを寺屋敷という地名が現在でも言い伝えで残っており、 大沢氏を中心にして郷土の歴史を後世に残したい一念で、ふるさと中島の信仰と歩み(非売品)と題する書を昭和61年に発行している。
さらに大沢氏は、安政6年の百不動巡拝記を所蔵しており、高齢にもかかわらず探究心旺盛な方である。 平成5年のご開帳の折、厨子内を拝見した。それは今まで見たこともない、一枚の板に線で画かれた不動尊像であった。前には二童子の彫りものが置かれている。
秘仏のせいか板も新しい感じをうける。足立百不動尊の中で板に画かれた不動尊はここだけである。(高島英一著より)

2009年9月10日参拝

御詠歌   かるらゑん よの中嶋にたちなひき 万つ行ふ 寺のにはもせ

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