さいたま市中央区上峰4-7-28
円福寺
八王子、東覚院のあとを出て、浅間神社の裏手を走っている大宮バイパスの、北よりの道を渡る。与野市街へと300mほど進むと、街道に出る。 この街道は、徳川時代の初めか、それ以前につくられたといわれ、ほぼ直線状の道で、古いのに珍しい道である。 との情報を頂いた。氷川神社周辺は、工場、住宅、畑が混在しているが、寺院はみられず、土地の古老に聞いて回っても、三光院の情報は全く得られないでいた。 氷川神社は、高い木立にかこまれた三角の地形の中に、奥の拝殿まで三本の鳥居があり、その拝殿の軒下に、正一位氷川大明神の扁額がかかっている。
2000坪ほどあろうかと思われる広い敷地をもち、三光院と無関係とは思われないので、ずい分とこの周りを探したが、わからなかったものである。 百不動巡拝記や、巡拝図にある距離をみると、東覚院から三光院まで436m、三光院から円乗院まで763mとなっている。
氷川神社周辺に三光院があったとすると、距離的に符号しない。そこで、地図の上で符合する地点を計算すると、正円寺付近ではないかということになった。 正円寺のまわりには、街道をへだてて、長伝寺と一山神社がある。この両者は正円寺から100mとははなれていない。 探し出す地点を、この中にしぼりこんで、正円寺を訪れたのである。
正円寺のご住職、深谷氏は、三光院の名を聞くとすぐ、寺に残る古文書をひもといてくれたのである。この古文書の中にあった。 三光院のわずか三文字が、ご住職の記憶にあったのは、お不動さまのお導きとしか思えない。
寺に伝わるその古文書は、寛永の頃(1651)年の記録を、虫食いで書きかえたという文書も含まれており、かなり分厚いものである。その中に、前後から計算して、 明治5年に記録されたとみられる。
正円寺の地権調べがあり、絵図面がある。それには、正円寺の庫裡を中心に、周辺の居住人や店の名が記入されている。 お寺の前の南にある表門(現在も同じ位置にある)の道の前に三光院とはっきり、記入されていたのである。紙面のはしになることから、三光院の建物は記入されていない。
現在、正円寺の前は、南へ道がのびているが、昔は道がなく、三光院の敷地であったことがわかる。三光院跡地は現在住宅で埋められている。 永年、探してわからなかった三光院は、平成5年の酉年に、正円寺深谷住職に教えて頂いて明らかになった。 廃寺後の不動尊は、縁故をたどって、ここから2キロほど南の上峰円福寺に預けられている。
円福寺は、建築中の県の芸術劇場の、そのすぐ近くのバイパス寄りにある。 平成4年の5月に落成式をあげたばかりの新しい寺になっており、その記念碑には3億5千万円の費用とあった。 本堂の中に阿弥陀如来とその左に不動尊立像が拝めるが、扁額はみえない。
(高島英一著より)

2009年9月10日参拝

御詠歌   よのひとの まよひをてらすかるらゑん たえすみちひけ三つの光りに

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