さいたま市浦和区常盤1-4-23
成就院
玉蔵院の山門から中山道に出る。10分ほど北へ歩くと、左に慈恵稲荷社の石碑がある。その先の赤い鳥居の奥には稲荷社があり、途中に(二七の市)の説明がある。
それには、天正18年浅野長政によって浦和の市に禁制が発せられ、それより古くからあった市を二と七の日、つまり月に六日を市の日ときめて六斉市とした。 農産物や生活必需品の取引が、昭和の初めまでつづいていたもので、蕨が一と六、鳩ヶ谷が三と八、与野が四と九、大宮が五と十で、それぞれ市をひらいたのだという。 有名な年一回の氷川神社のまつり、大宮の十日町、浦和の十二日町は、この日に起因している。
この稲荷社のすぐ先に、浦和上不動堂がある。入口に成就院(上等)の表示がある。 玉蔵院あたりが中で、その先が下になり、中仙道の京に近い方を上と呼んだ風習が、今に残っている。 ここは玉蔵るが、成就院といっているのはなぜか、玉蔵院のご住職に伺うと、昔、御殿山という所に成就院があり、廃寺の折、 仏像等を玉蔵院に収容したとのことであった。この御殿山とは現在常盤公園のことで、徳川家康が浦和に鷹狩にきた際の御殿跡である。 たまたま市役所内に所蔵されていた浦和宿絵図文化8年により確認された。
この絵図には、御殿跡林となっており、慶長16年建物はこわされ、表門は玉蔵院に下げられたものらしい。成就院もこの絵図院の隠居寺とも聞いたことがある。 本堂左手に、瑠璃堂(薬師堂)があり、中の立派な宮殿に薬師如来が、その右の厨子には、不動尊がまつられている。扁額は内にも外にもみえない。 この不動堂の左手から裏手にかけて広大な墓地がある。寺の入口からは想像もつかない。奥行きの広さである。 瑠璃堂の前の石造物の中に2mあまりの高さの灯篭型六地蔵が一体おかれている。上部の灯篭部分に、高さ30センチの地蔵尊を浮き彫りしたもので、 両方に元禄(1688年と1704年)の文字がみえる。六十七番と六十九番のそれとは形が異なるが、珍しい。
話が前後すの現在地に記載があるから、文化年間以前から成就院の中に不動堂があったのであろう。(高島英一著より)

2009年9月16日参拝

御詠歌   なむ不動 こゝろのうちはのこりなく のりのみつなに いまはつなきて

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