さいたま市浦和区岸町3-13
調神社
上から中(七十番玉蔵院)を通り、下の方へ中仙道をくだる。1キロほどで有名な調神社になる。
この南のはしに、日蓮上人の駒つなぎのケヤキがある。何年か前にきられて今は大きなきり株しか残っていないが、ここを左に入って、100mほど行くと、 神社の境内の公園になる。
その前の右に入る、せまい道のすぐ先に、石の小さな祠がある。ここが七十二番福寿寺の跡なのだが、ここにあった不動尊像は三室の市立博物館に展示され、 どうして不動尊像がここにくることになったのか、そのいきさつも説明されている。その説明によると、調神社の南、岸町3丁目にあった小堂で、 昭和57年諸般の事情でとりこわされた。
この堂は、明治4年廃寺となった中山道西側の福寿寺の仏像を移し、明治11年に建てられたもので、足立百不動の一つとして最近まで信仰をあつめていた。 なお、とりこわすにあたり、市指定文化財の不動明王座像など九体の仏像が本館に寄贈された、とある。
この不動尊像も、大威徳明王像も、 堂々としていて往時の福寿寺の隆盛ぶりを偲ぶには充分である。間間口くらいのせまい敷地に、いくつかの石造物が並べられているが、その奥に小さな不動尊像が 現在は、調神社の脇の一まつられ、その右脇に、これも石で七十二番の案内がある。
元の福寿寺は、さきほどの中山道に戻り、南へ少し行き、右へ100mほど入ると、左に広い墓地があるが、ここである。入ってみると平屋建の建物があり、 その軒下に、ここは神葬墓地で、5年以上無縁の墓は片づけると書いてある。
ここは、現在調神社の管理になっていて、この建物の奥は千坪ほどあろうか、広い墓地になっている。
以上二ヶ所の場所については七十三番医王寺の小島住職に教えていただいたが、三室の市立博物館にある立派な不動尊像をみるたびに、その説明にある、 諸般の事情により移転せざるをえなかったという理由は、どのようなことだったのだろうと、思いをめぐらすのである。(高島英一著より)

2009年9月16日参拝

御詠歌   はるはると 浦和の岸をこえこえて 福寿のふねを いまそつなける

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