さいたま市南区根岸4−2−7
根岸公会堂
文蔵不動堂(薬師堂)の前を右に行く。左手に神明社があるが、その前を通って行くと、少し広い車道に出る。これを右へ行く。 まもなく左の方に市の文化センターが見えてくる。左に折れて文化センターの方へ行く。センターを通りすぎると、右に新しい墓石の並ぶ墓地がある。
入口に小さく阿弥陀堂と書いてある。この一つ先の道を右に入り、坂を上ると、右に広い敷地をもつ、神明社、左に寺と墓地がみえ、道路をへだてて並んでいる。 寺の方の入口に、根岸公会堂と書いてあり、中に入ると右手の大きなお堂に薬師堂と扁額が有り、左手に、一間半間口の不動堂がある。
まだ改築後まもない不動堂で、軒下には、古びた七十六番大聖不動尊の扁額がかかっている。 中には50センチほどの二童子をしたがえた、金と黒の目立つ、不動尊立像が安置されている。
この不動堂の奥には公会堂があるのだが、平屋の建物で、他にみられる集会所と同じ感じである。薬師堂の裏手には、広い墓地が整然とならんでいる。 ここも浦和の舌状丘陵の先端で、現在は下の方に建物が並んで、見晴らしも良くないが、昔は武蔵野の、すばらしい原野が、一望できたにちがいない。
この薬師堂は、玉泉院の名がどこにもみえないので、確信がもてず、気になっていたのだが、たまたま玉蔵院の木村住職に、玉泉院はこの薬師堂ではないか伺い、 その事情に詳しい中村氏を紹介して頂いた。この中村清氏と田中猛氏(ゴルフ場経営)のお二人に玉泉院の移転の状況を伺った、要約すると次のようである。
ここに来る途中の坂の下に、阿弥陀堂があったが、これを地元の人達は下の堂といい、坂の上の薬師堂を上の堂と言っていた。 昭和に入っても下の堂には住職がいたのだが、都市化が進むにしたがい、下の堂の阿弥陀仏を薬師堂に移し、墓も全部上の堂へ移してしまった。
現在の阿弥陀堂が新しい墓ばかりなのはそのためで、昭和のはじめ頃は、まだ古い墓石が一部あったようだ。この阿弥陀堂(下の堂)の前の十字路をわたり、 上の堂の反対側100mほど行った右に駐車場があるが、ここに玉泉院が昔あったという。ここは木を植えても枯れてしまい、作業をしても不幸をまねくということで。 駐車場にしてあるが、掘れば石造物がまだあるらしい。
従って明治のはじめの廃寺の折に薬師堂(上の堂)に不動堂を移したものと思われるが、薬師堂のすぐ裏に20mほどの長さで三段積みの無縁仏をまとめてある。 その200個ほどの墓石の中には、僧の墓石や、縁泥岩の板碑、不動尊と思われる石造物が並べられている。
中村氏は大正十一年の生まれで、物心ついたときから、上の堂に不動堂があったという。 現在の公会堂のあたりは山になっていて、そこに草ぶき屋根の薬師堂と不動堂があって現在薬師堂の右脇に並べられてある古い石造物も、 お堂と並んで山の上にあったのだとのことだった。
新編武蔵風土記稿には、玉泉院は玉蔵院の門徒で、大日如来をまつるとされているが、中村、田中両氏とも、明治のはじめ、はげしい玉泉院の移り変りの記録は、 いろいろ調べているが今までのところ何もわからない、とのことであった。 (高島英一著より)

2009年8月23日参拝

御詠歌   おちたきり 玉の泉のそゝけるは きよきみ山の根岸なりけり

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