蕨市錦町6-5
堂山
吉祥院から、さきほどの神社の前に戻り、南の方へ進む。ほどなく外郭環状線の下を通る。
ここは、下にも高速が走りその中間を横切ることになるのだが、上と下に走る車の騒音はひどいものである。 この脇に石碑がある。これは、旧中山道の一里塚で、木はなくなってしまって、石碑だけになっている。 道理でこの道はくねくねと曲折をくりかえす。吉祥院から10分ほど歩くと蕨市に入る。
この先にある十字路から左をみると、宝蔵寺の墓石がみえ、右をみると西小の建物がみえる。この西小の建物にそって、校庭の方へ入って行く。 車がやっと通れるくらいの校庭から少し先の道を右に入ると、その先に墓地がみえる。古い苔した墓石群の中に、これも古いお堂が建てられている。
これが通称堂山というお堂で、薬師如来をまつるが、この堂内に東光寺不動尊がある。 堂の中はみえないし、79番の扁額もない。
しかし、ここには一基の庚申塔があり、蕨市の文化財に指定されており、これに東光寺の名もみられ、堂山は東光寺の外墓地であったと市の説明を受けた。
この庚申塔は、1.5mほどの高さで、薬師堂の左手前にあるが、蕨市の説明によると、舟型光背に薬師如来を浮き彫りし、基部に東光寺をはじめ、 16人の名が刻まれて、東光寺住職の唱導で、庚申講を結んだ人達が、自身の死後の仏事をあらかじめ修するための造立であるという。
寛文10(1670)年とこれには刻まれている。 では東光寺はその昔、どこにあったのか、市に教えてもらった。この堂山から東方約300mの錦町4丁目には、昭和の終わりごろには、力石が4個置いてあった。
墓石類は全くみられず、住宅街の脇にその力石はあったが、現在はその力石も、蕨市の歴史民俗史料館の入口に置かれており、かつての現場は住宅が建ち並び、 力石のあった場所は確認できない。 東光寺の墓石の大部分は堂山の薬師堂に運ばれたのであろう。この墓地は500坪ほどあろうか。苔むした古い墓石が多い。
蕨市は、全国一の人口密度の高いことで知られるが、それでもこのあたりは空地が目立つ。平成3年頃まで、地価が高くなり続けて、建物がどんどん建てられたが、 不況でバブルがはじけてこれから先どうなるのだろうか。(高島英一著より)

2009年9月16日参拝

御詠歌   あたちのゝ 上の蕨のさとにいま 東の光り ほのめくとしれ

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